翻訳横丁の裏路地

We can do anything we want to do if we stick to it long enough.


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AIで消滅する翻訳という職業

今朝、Forbes Japan の「ChatGPTが消滅させる?「年俸1千万超」含む7つの職業」という記事を目にしました。

機械翻訳やAIの登場で消滅する職業のひとつとして必ず登場する「翻訳」ですが、この記事にも4番目に「翻訳者」として取り上げられています。

AIで翻訳という職業は消滅する。
本当にそうなのだろうか?

SNSを見ていると「翻訳は無くなる」「いや、翻訳は残る」という、立場の違うもの同士が前提も明らかにしないで意見交換(?)しているのを見掛けますが、私は両者の主張はどちらも正しいと感じています。

昨年、n数は少ないが某社の機械翻訳を利用して検討を行ったことがあります。言語方向は日英で、日本語原稿、人間翻訳者の翻訳、MT出力を一文ずつアライメントして表にして評価を行いました。文書種類は技術説明を含んだ作業手順書。それぞれの文のコンテキストレベルは低~中程度ではないかと思います。

MT出力を 1)そのまま使えるもの、2)MT出力をツールなどで後処理すれば使えるもの、3)再翻訳が必要なもの、という3つの分類に分けていくと、2:2:6の割合でした。ちなみに1は置換翻訳で対応できる世界であり、AIなど不要な低コンテキスト文ばかりです。また、2はスタイルガイドや用語の適用に関する事項が多かったですが、これらはルールが明確であることからツールで処理できる世界です。MTエンジンを自らチューニングできるなら、取り込めるのかもしれません。

機械翻訳は、そういった文書特有なルールやライティングのお作法、文のスタイル統一など考慮しない出力をすることや、文脈や構文に配慮がないため、翻訳という商品にする場合にそのまま「使えない」ものが多くなります。また、文のコンテキストレベルがあがると、そのまま「使えない」ものがどんどんと増えてくるようです。(だから、PEでなんとかしようとしているわけですが)

「機械翻訳は使える」「翻訳という職業は無くなる」そして「機械翻訳は使えない」「翻訳という職業は無くならない」。それぞれ何を見ていっている言葉なのでしょうね。

私は次のように考えています。
低~中コンテキスト文書であれば、前者。中~高コンテキスト文書ならば後者。高コンテキスト文書でも、意味さえ取れればいいといった目的で、出力に低コンテキストを求めるのであれば、前者です。(端的にみれば、確かに翻訳という職業は消滅し始めている)
業界にいる翻訳者のみなさんは既にこの認識をお持ちだと思います。だから、高コンテキスト文書を取り扱う翻訳分野へシフトすべしという話が、SNSでされているのだと思います。翻訳者を続けていくならば、もしくは翻訳者になるのであれば、たとえば、映画/ドラマなどの映像翻訳、マーケティング翻訳、文芸翻訳など、言葉や文の持つコンテキストが高く、機械翻訳には当分対応できないであろう分野へシフトしていくのが良いでしょう。

さて、問題になるのは、この「中」ってどういう水準なのかです。これはAI技術の進歩にしたがって上へ上へと上がっていくものだと思います。私が最近、この水準が一気に上がったかもしれないと感じたものは、上述の紹介記事に書かれているChatGPTです。私もPlusへ登録し、翻訳業務へのChatGPT活用を模索しているのですが、GPT4の英訳出力を見ていると、上述した「使えない」部分を解決しそうな振る舞いを見せます。この先、こういった技術進歩は続くと考えられますから、人間でしかできない翻訳分野が増えていかない限り、翻訳という職業が縮小していくのは理屈として正しいと考えています。

「翻訳という職業が消滅するか」は、私にはわかりません。感覚的に「無くならないだろう」と思っています。ここから先はSFの世界なので、ある意味、なんとでもいえます。機械翻訳技術もさまざまなアプローチが生まれるでしょうし、処理能力不足により技術的に頭打ちになっている部分も、量子コンピュータが登場すれば一気に解決する可能性もあり、そうすると上述した「水準」はさらに人間のそれに近づいてくることになるでしょう。嘘つきAIのために、人間がAIの出力を100%見直さなくてはならないといった現在の状況も、無くなってくるのかもしれません。このあたりは、酒を酌み交わしながらゲラゲラ笑いつつ楽しむ会話の世界だと思うので、相手の意見がおかしいなどと言い合っても仕方が無いように思います。

翻訳という仕事を行う当事者である私たちは、少なくともこれから先、どういう展開が予測されるのかを判断し、リスク評価をして自らの行き先を考え、それに備えて行動していくことが大切だと思います。


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話題?のポストエディット

日頃、電話なんてまったくしない自分には珍しく、先日、長電話をした。年単位でお会いしていない翻訳業界のお友達が相手。だから長電話になるのは当然なのだけど、何よりも境遇が似ている相手なので、心の何処かで「同志」のように感じていて、会話が楽しかったのも理由だと思う。

いろいろと話をしているウチに「ポストエディット」(PE)の話題になる。なんと、仕事でPEをやった(やらされた)のだとか。PEの現場がどんな感じなのかを知りたかったのもあり、いろいろと興味深く話を聞いたのだけど、何とも悩ましい。

機械翻訳の出力文を修正する基準が「意味が通じれば手を付けない」だという。巷で良く耳にする基準だけど、話を聞けば聞くほど判断に悩んでいる感じが、言葉の端々に感じられる。だって「意味が通じる」って、あまりに属人的判断基準じゃない? そこで悩んでいても仕事が進まないから、適当なところで割り切って判断するわけだけど、この作業を繰り返していると、やっぱり、言語感覚が狂うだろうなぁと心配になった。

本当は直した方が良いと感じつつ放置して、そんな放置された文章を大量に、しかも繰り返し目にするとどうなるだろう。人間は能力が高過ぎるが故に、直した方が良いという感覚が麻痺してくるのではないかと思うのですよ。きっと、感覚が鈍くなる。言葉の感度が大切な翻訳者を目指す方には絶対に危険だ、と、やはり思うわけです。

もちろん、こういう作業が好きな方もいるのです。そういう方はどんどんやれば良いと思います。ただ、社内でやるならまだしも、フリーランスで委託を受けてやるには、報酬が低すぎますね。仕事として稼げないのでは成り立たない。もはや内職的仕事なんだと思います。

私は、MTPEは、文書種類などの条件が揃えば利用できると考えています。そのレベルの条件であれば、PEに要求されるスキルも然程高くなくて大丈夫だろうと思います。問題は、使う側(特に企業側)が、その辺りの認識を正しく持たずに「単価が低いMTPEセット」という単純な発想で、ありとあらゆる文書にMTPE利用を展開しているところでしょう。もはや、誰でも出来るPEではなく、高い翻訳の知識を必要とする高価かつ工数の掛かるPEになっている。なのに、安い単価のままで回そうとして破綻しているように見えます。

PEをやるやらないは個人の判断ですが、仮に自分が請けるとしたならば、どんな文書が対象で、最終読者は誰で、求められる質はどのレベルかを把握した上で、はたして正しいMTPEの使用条件なのかを判断したいと思います。そして、必要となる工数と支払われる単価から、仕事として適切かを判断して請けたいところです。