個人翻訳者が自分の翻訳をチェックするとき、避けて通れない問題があります。
それは、チェックする目がひとりしかないということです。
翻訳を終えたあと、何度も読み直して誤りを探す。時間を置いてチェックしたり、チェックする場所を変えたり、いろいろ工夫している方も多いでしょう。しかし、自分が翻訳した文章には、どうしても思い込みが入り込みます。正しく翻訳したつもりになっているため、誤りがあっても気づかずに読み飛ばしてしまう。ケアレスミスの厄介なところです。品質保証の観点からいえば、こうしたミスの流出を防ぐ簡単で有効な対策のひとつがダブルチェックです。自分とは別の人間がチェックするダブルチェックのことで、本人が見落とした誤りを検出できる可能性が高くなります。
ところが、個人翻訳者の場合、別のチェック担当者は基本的にいません。外部委託するという方法もありますが、契約上の制限や、コスト的問題で必ずしも確保できるわけではありません。
そこで、生成AIをもうひとりのチェック担当者として使おうという発想です。
もちろん、生成AIは人間のチェッカーと同じではありません。間違った指摘をすることもあれば、誤りを見落とすこともあります。それでも、自分とは異なる方法で文章をチェックする目が加われば、ひとりでチェックする場合よりも、誤りを検出する機会を増やせるはずです。つまり、生成AIを使って疑似ダブルチェックを可能にするのです。
多くの方が誤解されていると思うのですが、生成AIに「この翻訳をチェックしてください」と指示するだけでは、期待するチェック結果は得られません。人間の翻訳者やチェッカーに指示を与えるときと同様に、自分の翻訳に対する考え方や判断基準を指示として与えることで、自分の翻訳を理解したチェック担当者に生成AIを育てていきます。
今回は、そのための方法をご紹介します。
自分の翻訳チェック基準を生成AIに教える
翻訳者には、それぞれ自分なりの翻訳方針やチェック基準があると思います。
例えば、英日翻訳であれば、原文の構造を引きずった不自然な日本語を避ける、冗長な表現を減らす、同じ助詞の繰り返しに注意する、といったものです。ほかにも、訳語の統一、訳抜け、数値の誤り、原文の意味が正しく伝わっているかなど、チェックすべき項目はたくさんあります。
こうした基準の多くは、翻訳者が経験を重ねる中で身につけてきたものでしょう。自分が普段どのような観点で翻訳をチェックし、どのような表現を問題と判断するのか。その基準を生成AIに与えれば、自分の翻訳方針に沿ったチェックをさせられるようになります。
そのために、まず必要になるのが、頭の中にある翻訳チェックの基準を言語化する作業です。例えば、「冗長な表現を避ける」という基準があったとします。これだけでは、何を冗長と判断するのか曖昧ですよね。そこで、「~することができる」という表現は可能形への変更を検討する、ただし、意味や文体が変わる場合は機械的に修正しない、といった具合に、判断基準を具体化していきます。もちろん、最初から完璧なものを作る必要はありません。普段、自分が翻訳チェックで気をつけていることを、思いつくままに書き出すところから始めればよいと思います。(不足があっても構いません)
チェック基準をテキストファイルにまとめる
次に、書き出したチェック基準をテキストファイルにまとめます。
特別な形式にする必要はありません。普通のテキストファイルで十分です。
例えば、日本語訳文のチェック基準なら、こんな感じです。
- 同じ助詞が不必要に繰り返されていないか。
- 「こと」を多用した冗長な表現がないか。
- 原文の構文を引きずった不自然な日本語になっていないか。
- 文脈に合わない訳語が使われていないか。
- 同じ概念に対する訳語が統一されているか。
- 原文の意味を変えてしまう修正になっていないか。
- 文体上の好みと、客観的な誤りを区別しているか。
これは簡単な例ですが、こうしたチェック項目に加え、それぞれの判断基準や例外条件も記述しておきます。過去の翻訳チェックで修正した事例があれば、それを参考にするのもよいでしょう。自分が何を問題と判断し、どう修正したのか。その理由まで書き出しておけば、生成AIに判断基準を伝える材料になります。ここで作成するのは、自分専用の翻訳チェック基準書のようなものです。
チェック用プロンプトも生成AIに作らせる
さて、チェック基準をまとめたら、いよいよ生成AIの出番です。といっても、ここですぐに翻訳をチェックさせるわけではありません。
まず、チェック基準を生成AIが扱えるように、専用のプロンプトを作成します。
この作業も生成AIに任せてしまいます。作成した基準テキストファイルを生成AIに入力し、その内容を分析させて、翻訳チェック用のプロンプトを作成するよう指示します。その際、単にチェック項目を並べるのではなく、どのような条件で問題と判断するのか、どのような場合は修正しないのか、チェック結果をどのように出力するのか、といった点も整理させます。
例えば、チェック結果には、問題箇所、適用したチェック基準、問題と判断した理由、修正案などを出力させます。また、誤訳や訳抜けをチェックさせるのであれば、原文と訳文の両方を入力する必要があります。日本語としての自然さだけをチェックする場合とは、チェックの方法も変わってきます。こうした違いも、プロンプトに組み込んでおくわけです。
出力形式はMarkdown形式がよいでしょう。Markdownは、見出しや箇条書きなどをテキストで記述できる形式です。人間にも読みやすく、生成AIに指示の構造を伝えるうえでも扱いやすいという利点があります。完成したプロンプトはMarkdownファイルとして保存しておけば、必要なときに生成AIへ読み込ませて利用できます。
完成したプロンプトを見て、自分の翻訳方針にそぐわないとか修正したい箇所があれば、生成AIに具体的な修正内容を伝えます。納得がいくまで壁打ちをしてプロンプトを修正し、完成形にします。これで、自分専用の翻訳チェック用プロンプトができあがります。
そのチェック基準、本当に正しいのか?
ところで、ひとつ気になる問題があります。最初に自分で書き出したチェック基準は、果たして正しいのでしょうか。翻訳者が長年使ってきたルールであっても、実は誤解していたり、特定の分野でしか通用しなかったりする場合があります。また、以前は一般的だった表現や表記が、現在では別の形で使われるようになっていることもあります。
そこで、チェック用プロンプトを作成させる際に、基準そのものの妥当性も生成AIに検証させます。
具体的には、現在の一般的なライティングルールや関連する情報をインターネットで調査し、基準テキストファイルに記述した内容と比較させるわけです。もし違いがあれば、元のチェック基準による判断と、現在のルールによる判断を区別して提示するように指示します。
ただし、現在の一般的なルールが、常に正しいというわけでもありません。翻訳分野によって独自の慣行がありますし、顧客から指定されたスタイルガイドを優先しなければならない場合もあります。また、生成AI自身が誤った情報を提示することもあります。ですから、調査結果には根拠となる情報源を示させ、必要に応じて自分でも確認します。そして、どちらの基準を優先するかは、最終的に自分で決める。ここを生成AI任せにしてはいけません。
完成したプロンプトを育てていく
ここまでで翻訳チェック用のプロンプトが完成しました。
では、これで期待どおりのチェックができるでしょうか。おそらく、そう簡単にはいかないと思います。実際に翻訳をチェックさせてみると、問題のない表現を誤りとして指摘したり、機械的にルールを適用して不自然な修正案を提示したりすることがあるでしょう。反対に、明らかな誤りを見逃すことも考えられます。
そんなときは、「その指摘は間違っている」と伝えるだけで終わらせず、なぜ不適切な判断をしたのかを分析します。チェック基準が曖昧なのか、例外条件が不足しているのか、それとも生成AI自体の能力による問題なのか。原因を確認し、必要があればプロンプトを修正します。また、プロンプトの不備で指摘が漏れているような場合は、チェック基準をプロンプトに加えて補強します。
この作業を繰り返して、チェック精度を高めていくわけです。
ただし、プロンプトを修正したからといって、必ず改善されるとは限りません。ある問題を解決するためにルールを追加した結果、それまで正しく判断できていたものまで誤判定するようになることもあります。そこで、過去のチェック事例を保存しておき、プロンプトの修正前後で結果を比較できるようにしておくと便利です。
さらに、どの程度の誤りを発見できたのか、誤った指摘がどの程度発生しているのかを記録しておけば、チェックの有効性を評価することもできます。品質保証の仕組みとして考えるなら、ここは大切なところです。単にチェック工程を追加しただけでは、品質が向上したとはいえません。実際に誤りの検出が改善しているのか、確認する必要があります。
そして、この改善作業に終わりはありません。翻訳を続けていけば、新しい問題に出会うこともあれば、自分の判断基準が変わることもあるでしょう。そのたびにプロンプトを見直し、修正を加えていきます。つまり、プロンプトを作って終わりではなく、使いながら育てていくという考え方です。
AIエージェントを使えば、もっと便利になる
ここまでの作業は、ChatGPTのような一般的な対話型生成AIでも実施できます。
ただ、ファイルの読み書きができるAIエージェントを利用すると、さらに便利になります。
例えば、プロジェクトフォルダに、翻訳チェック用プロンプトをMarkdownファイルとして保存しておきます。実際の翻訳チェックで不適切な指摘があった場合は、その内容と、どのように判断すべきだったのかをAIエージェントに説明します。すると、AIエージェントに既存のプロンプトを分析させ、修正案を作らせることができます。修正内容に問題がなければ、そのままプロンプトファイルを更新させればよいわけです。自分でプロンプトファイルを開いて、該当箇所を探して修正する必要もありません。AIエージェントとの会話により、プロンプトが自己成長して、自分の翻訳ノウハウが蓄積されていきます。
もっとも、修正内容の確認までAIエージェント任せにするのは危険です。判断基準そのものを誤った方向へ変更してしまう可能性もありますから、変更履歴を残し、必要に応じて以前の状態へ戻せるようにしておくべきでしょう。また、プロジェクトフォルダを分けて管理する方法も考えられます。
英日翻訳と日英翻訳ではチェックする観点が違いますし、技術翻訳、法務翻訳、医薬翻訳など、分野によっても適切な判断基準は異なります。さらに、顧客別のルールを追加すれば、案件ごとに異なるチェックを実施することもできます。共通のチェック基準をひとつ用意し、そこに分野別・顧客別の基準を組み合わせる方法もあるでしょう。
このようにすれば、自分の翻訳業務に合わせて、チェックの仕組みを拡張していくことができます。
なお、顧客の原稿や翻訳データを生成AIへ入力する際は、守秘義務や情報管理にも注意が必要です。外部サービスへ情報を送信できない案件であれば、ローカル環境で動作する生成AIを利用する方法もあります。
自分と同じ考え方を持った相棒
今回ご紹介したのは、生成AIを使った翻訳チェックのアプローチのひとつです。(考え方のひとつです)
ただ、私がこの方法で面白いと考えているのは、生成AIに翻訳をチェックさせること自体ではありません。
自分が持っている翻訳の知識や経験、判断基準を、生成AIが利用できる形にして蓄積していくことです。
翻訳者によって、翻訳に対する考え方は違います。
どのような訳文をよい翻訳と考えるのか。何を誤りと判断し、何を許容するのか。どこまで原文の表現を残し、どこから日本語としての自然さを優先するのか。
そうした判断には、それぞれの翻訳者が積み重ねてきた経験が反映されているはずです。その考え方をチェック基準として言語化し、生成AIに与える。そして、実際のチェック結果を見ながら、判断基準やプロンプトを改善していく。この作業を続ければ、自分の翻訳方針を理解したチェック担当者に近づけていくことができます。
もちろん、人間のチェッカーと同じ能力を持つわけではありませんし、生成AIによるチェックだけで翻訳品質を保証できるわけでもありません。それでも、自分ひとりでは気づかなかった誤りを、別の目で発見できるようになれば、個人翻訳者にとって有効な品質保証の手段になると考えています。
そして、もうひとつ。
この仕組みを改善していく過程で、自分自身の翻訳に対する考え方や判断基準も整理されていくはずです。普段は無意識に行っていた判断を言葉にすることで、自分が何を重視して翻訳しているのか、あらためて確認する機会にもなるでしょう。
単なる翻訳チェックツールではなく、自分の考え方を共有し、自分とは違う目で翻訳をチェックしてくれる相棒。そんな相棒を、自分で育てていける時代になったのだと思います。