翻訳横丁の裏路地

We can do anything we want to do if we stick to it long enough.

翻訳者かプログラマーか

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長らく何も書いていないブログですが、久しぶりに、何か書いてみたいと思います。

そうですね、最近、ときどき頭の片隅にあって、時間があると思い返して考えていることがあるので、それを書いてみます。もちろん、私の浅はかな考えに基づくものですので、一笑に付していただければありがたいです。

それはそれは遠い昔のお話。仕事で大量の日本語文書を英文に、大量の英文書を日本語に書き換えなくてはならなくなったとき、プログラミングに覚えのある人間なら「単語の置換」をプログラムでやってしまえと自然に発想するでしょう。私も同じ発想で、辞書ファイルを参照して用語置換するプログラムを書き上げて使い始めたわけです。

プログラムの出力を利用して完成文を作り上げていくわけですが、作業を繰り返していくうちに人間というものは欲が出始め、品詞に関係なく、なんでもかんでも置換しようと工夫を始めるわけです。辞書を工夫したり、プログラムのアルゴリズムをいじったり、まぁ、プログラマーとしては楽しいひとときなわけですが、副詞だろうが形容詞だろうが、時には動詞まで何とかしようと試み始める。この辺りまで行くと、手段の目的化状態になりつつある。

出力を完成文に整える作業の中で、はたと気付くわけです。プログラムの出力が「邪魔くさい」と、完成文に行き着く思考の中で役に立っていないと、むしろ邪魔をして目障りだと気付くわけです。ここに気付くかどうかが翻訳者かプログラマーかの別れ道になるのでしょうか。結論として、解釈に揺れがない固有名詞以外は、置換しても思考の邪魔になるだけだと自ら学ぶわけです。

もし、気付かなかったら?

さらにあれこれ工夫をして、「こういう条件なら使える」と無理矢理使う方向に走るのだと思います。作ったモノを何とか使いたい、なんて欲が働けばなおさらでしょう。どこかで聞いたような話ですよね。

そして、なんだか取って付けたような、ある意味不完全な訳文になっていることに気付くこともなく、そしてそれに違和感を感じることもなく満足してしまう、そんな認識に落ち着くのでしょう。

「思考の邪魔」とは具体的にどういうことか。ハッキリと認識できたのは、その後の仕事でです。

時代は流れ、不特定多数を相手に翻訳の仕事をするようになって、どうしても翻訳支援ツールなるものに手を染めなくてはならなくなり、当時、業界標準だといわれていた翻訳支援ツールに高額を投資して導入します。

使い始めて「おぉ、こりゃスゲぇ」と驚くわけです。だって、翻訳メモリからホイホイと近似値文が表示されていくのですから。「これは翻訳速度が稼げる」と、ありとあらゆる文書分野に利用し始めるわけですが、使い続けていくうちに、自分の思考に危険なものを感じ始めるわけです。

目の前に、常に誰かの付けた訳文が(厳密にはその加工文が)あるのです。ツールの出力文を見て「いいんぢゃない? 確定」とか、「ちょこっと直して確定」という単純作業に陥り始める。一体、これ、なにを持って「良し」と判断しているのでしょう。

判断基準が人の訳ってこと?

自分が訳せばこうなるけど、この文章のここを直せば意味が通るから「良し」。そういうやり方ですよね。そして自分の頭の中で、最初から訳文を組み立てるという思考回路が段々と使われなくなり、文章の手直しばかりが思考を占有する。使わなければ劣化する。誰もが経験して知っていることだと思います。そこに気付いたとき、一体、自分は何をやっているんだ? これを使い続けると翻訳力が大打撃を受けるぞと思ったのです。

それでも仕事だから使わなくてはならない、というのが勤め人の辛さ。ならば、まず自分で訳文を組み立ててからと試みるわけですが、目の前に表示されたある誰かの加工文は、読まずとも目に入る。目に入ると、思考に少なからず影響するのです。「人の訳に引っ張られる」という話を聞いたことはないでしょうか。そういう思考状態に陥るのです。意識せずとも目に入ったものに思考が寄っていく。注意してても寄っていく。翻訳者は言葉の引き出しを、より多く持てるように日々学習しているわけですが、その引き出しの幾つかを錆び付かせて引き出せなくする、度が進めば、引き出しの存在すら忘れさせてしまう。そんな影響を与えてしまうのだと思います。

翻訳支援ツールの吐き出す訳例は「思考の邪魔」だと明確に理解できた時点で、遂に使うことをやめてしまいました。ワードで翻訳して翻訳支援ツールに流し込むという本末転倒な使い方に変えたのです。翻訳支援ツールは、辞書代わりとして使ったり、納品のための形式変換に使ったりするような役割に変えたのです。結局、翻訳の支援にならず、余計な作業工数を増やすだけのツールになってしまいました。

もちろん、文書種類によってやり方を変えているのですよ。作業手順書のような、訳者によって文章の表現自体が大きく変わらないものなどは、自分の思考への影響度が少ないですから、むしろ翻訳支援ツールの訳文ホイホイ機能を積極的に使うのです。また、自分の訳文のみの翻訳メモリを使う場合も、訳文ホイホイ機能を使ってます。

翻訳支援ツールが、なぜこんな姿になってしまったのかと、ときどき考えています。最初は、本当に翻訳を支援する(目的で作られた)ツールだったのだと思います。そして、開発者の「こんな機能が追加できるんじゃない?」とか販売者の「こんな機能があると売れるんじゃない?」とか、利用者(翻訳会社を含む)の「こんな機能があれば管理しやすいんじゃない?」とか、それぞれの立場での「良かれ」と思った機能を盛り込んでいったのでしょう。ただ、それらの機能が翻訳にとって本当に支援になるのかは充分に吟味されていないのだと思います。(吟味できる人たちではなかったともいえる)

昨今は、自動翻訳の活用を競っているようで、機械の出力を手直しするポストエディティングが仕事として増えてきたようですが、これも翻訳支援ツールが普及したときと、まったく同じことがいえるでしょう。

当たり前のことですが、考えてみれば、どちらも(翻訳支援ツールもMTPEも)、「文章を手直し」することを基本的考え方として成り立っている。手直しする文章を、人間が作ったのか機械が出力したのかの違いだけです(その差は手直しするときの負担としては大きいのだけど)。こういったツールが普及したことで「手直しして訳文を作る」仕事も翻訳者が担うものへと変わってきたのでしょうね。また、翻訳者という言葉の概念が変わってきたのだと思います。

この記事のタイトルを「翻訳者かプログラマーか」としてみましたが、自分が作った(使っている)ツールが、翻訳者の大切なところを伸ばしてくれるのかダメにしちゃうのか、その辺りに気づける自分でいられるように翻訳に精進したい、そして「翻訳者」側に常にいられる意識でいたいと思って、こんなタイトルを付けてみました。(ときにプログラマー側に立つこともありますけどね)

いろいろなセミナーや勉強会を通じて、翻訳の諸先輩たちからいろいろなことを学びますが、ときに自分の持つ知識と認識では解釈できないような深い話を聞くことがあります。「ん~、どういうことだろう」と頭の片隅に置いておくと、知識と経験が深まったころに「あぁ、こういうことだったのか」と合点がいく。

最近話題の自動翻訳やポストエディティングについても、諸先輩たちがいろいろな考え方を示してくれている。「そんなこと、ないよ」と拒絶する前に、一度自分の中に取り込んで様子を見てみて欲しいのです。

私が学ぶ姿勢として大切にしたいと思っているのは、今の自分で分からないことは、どうやったって、分からないのだということです。「関係ない」と思えば、もうそれっきり。自分の学びには二度となりません。まずは自分の中に取り込む。それからじっくりと吟味するという姿勢でありたいと思っています。

作成者: Terry Saito

二足の草鞋を履く実務翻訳者です。某社で翻訳コーディネーター、社内翻訳者をやっていました。 詳細は、以下のURLよりどうぞ。 https://terrysaito.com/about/

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